誰かを傷つけてしまうかもしれない言葉でも、
それでも、
語っていいのでしょうか。

インターネットの中で起きる問題を考えていると、
ときどき、
こんな迷いにぶつかります。

「これは人を傷つける表現かもしれない」
「誰かの評判を下げてしまうかもしれない」

そう思ったとき、
何も書かずに黙っていた方がいいのか。
それとも、
それでも語るべきなのか。

言葉は、
事実でも人を傷つけることがあり、
正しくても、
誰かの人生に影響を与えてしまうことがあります。

だからこそ、

「人を傷つけるかもしれない表現は、
すべて控えるべきだ」

そう考えたくなることも、
自然な反応なのかもしれません。

けれど、
もし、
誰かに影響を与えるかもしれないという理由だけで、
何も言えなくなってしまったら、
社会はどうなるのでしょうか。

不満も、
批判も、
告発も、
体験談も、

すべてが、
誰かを傷つける可能性を含んでいます。

それでも、
私たちは、
言葉を使って、
社会と関わり続けてきました。

この回では、

「表現の自由」は、
なぜこれほど大切にされているのか。
そして、
それは、
どこまで守られるべきものなのか。

その意味を、
少し整理してみたいと思います。

表現の自由は、なぜ大切にされているのか

「表現の自由」と聞くと、

好きなことを言える権利、
何を書いてもいい権利、

そんなイメージを持つ人もいるかもしれません。

けれど、
この自由が大切にされている理由は、
単に、
わがままを許すためではありません。

表現の自由は、
社会がまともに動き続けるための、
とても基本的な土台です。

たとえば、

権力のある人を批判できること。
不正を告発できること。
多数派とは違う意見を、
口に出せること。

こうした言葉が封じられてしまうと、
社会の中で起きている問題は、
表に出てこなくなります。

間違いがあっても、
誰も指摘できない。
理不尽があっても、
誰も声を上げられない。

その結果、
社会は、
少しずつ歪んでいきます。

だから、
表現の自由は、

「自分の意見を言うための権利」であると同時に、

社会が、
自分自身を修正し続けるための、
大切な仕組みでもあります。

同時に、
表現の自由は、
一人ひとりが、
自分として生きていくための自由でもあります。

何を感じ、
何を考え、
どんな言葉で語るのか。

それを自分で選び、
外に表すことができるからこそ、
人は、
自分の人生を、
自分のものとして生きることができます。

もし、
考えたことを口にしてはいけない、
感じたことを書いてはいけない、

そんな社会になってしまったら、
人は、
自分の内側にある思いを、
押し殺しながら生きることになります。

さらに、
表現の自由は、
私たちが、
社会の出来事を知るための自由でもあります。

不正の情報。
危険の知らせ。
誰かの被害の声。

そうした情報が、
自由に語られ、伝えられるからこそ、
私たちは、
何が起きているのかを知り、
自分の判断を、
自分で行うことができます。

この意味で、
表現の自由は、

「過激な意見のため」に守られているのではなく、

むしろ、

私たちが、
安心して社会の中で生きていくために、
守られている自由だと言えます。

名誉毀損、侮辱、プライバシー侵害との調整

もっとも、

ここまで読んで、
こんな疑問を持った人もいるかもしれません。

「それなら、
どんな言葉でも自由に語っていいのか」
「誰かを傷つけても、
表現の自由で守られるのか」

答えは、
そう単純ではありません。

表現の自由は、
とても大切な自由ですが、
それが、
無制限に認められているわけではありません。

なぜなら、
言葉は、
自由であると同時に、
誰かの人生に、
直接触れてしまうものでもあるからです。

誰かの評判。
名誉。
プライバシー。
人格そのもの。

これらもまた、
一人ひとりが、
安心して生きていくために、
とても大切なものです。

もし、
「表現の自由」という言葉だけを理由にして、

誰かの過去を暴き、
根拠のない噂を広め、
人格を否定する言葉を投げつけても、

すべてが許されてしまうとしたら、

人は、
安心して社会の中で生きていくことができなくなります。

だから、
表現の自由は、

「何を言ってもいい自由」ではなく、

他人の人格や尊厳と、
どう折り合いをつけるかを含んだ自由として、
考えられてきました。

実際、

誰かを批判することと、
誰かを中傷することは、
似ているようで、
まったく違う意味を持ちます。

問題を指摘する言葉と、
人格を傷つける言葉も、
同じではありません。

社会の中で必要な批判と、
ただ相手を貶めるだけの言葉も、
本質的には別のものです。

けれど、
現実の言葉は、

その境目が、
いつもはっきりしているわけではありません。

不満を語っているつもりでも、
体験を共有しているつもりでも、
正義感から書いているつもりでも、

気づかないうちに、
誰かの評価や尊厳を、
深く傷つけてしまうことがあります。

だから法律は、

表現の自由を、
ただ一方的に守るのではなく、

名誉や人格、
プライバシーといった権利との間で、

どこで線を引くべきかを、
長い時間をかけて考えてきました。

その線は、

「自由か、違法か」という
単純な二択ではありません。

削除だけでは区切りがつかない場合、

「誰が書いたのか」を特定する手続が
検討されることもあります。

発信者情報開示とは?流れ・費用・期間と「本当にやるべきか」の判断軸

どんな言葉なのか。
どんな文脈で語られたのか。
誰に向けられたのか。
どんな影響を生んだのか。

そうした事情を、
一つずつ見ながら、

守るべき自由と、
守るべき人格とを、
できるだけ丁寧に、
両立させようとしているのです。

なお、
現実の対応としてまず検討されやすいのは、
投稿の削除です。

削除請求の流れや、
費用・期間の現実は、
こちらで整理しています。

誹謗中傷の削除請求の流れ|費用・期間・成功の現実

なぜ「萎縮してしまう」ことも問題になるのか

ここまで見てきたように、

表現の自由は大切でありながら、
同時に、
誰かの人格や尊厳とも衝突する、
とても繊細な自由です。

このことを知ると、

「人を傷つけるくらいなら、
何も言わない方がいい」
「トラブルになるくらいなら、
黙っていた方が安全だ」

そう考えたくなることも、
自然な反応かもしれません。

けれど、
ここで、
もう一つ大切な問題があります。

それは、
人が、
必要なことまで言えなくなってしまうことです。

誰かを批判すれば訴えられるかもしれない。
体験を語れば責められるかもしれない。
問題を指摘すれば、
自分が標的になるかもしれない。

そう考え始めると、
人は、
少しずつ言葉を控えるようになります。

不満を言わなくなる。
違和感を飲み込む。
見て見ぬふりをする。

その積み重ねの先に生まれるのが、

「誰も何も言わない社会」です。

問題があっても、
表に出てこない。
不正があっても、
告発されない。
理不尽があっても、
声が上がらない。

こうした状態は、
表現が自由であるはずの社会にとって、
とても危ういものです。

だから、
表現の自由を考えるとき、
法律は、

「どんな言葉を規制するか」だけでなく、

「人が怖くなって、
何も言えなくなってしまわないか」

という点も、
とても強く意識してきました。

実際、

表現を厳しく取り締まりすぎると、

違法ではない言葉まで、
問題のない批判まで、
必要な告発まで、

一緒に消えてしまうことがあります。

何が許されて、
何が許されないのかが、
はっきりしないまま、

「危なそうだからやめておこう」

という空気だけが広がっていく。

この現象は、
よく、

「萎縮効果」と呼ばれています。

「危なそうだからやめておこう」

という空気に引っ張られるときほど、
一度、
判断の順番を整えることが役に立ちます。

感情と状況を整理する|判断前の整理

表現の自由が、
表面上は守られていても、

人が自分から口を閉ざしてしまえば、
それは、
自由が失われているのと、
ほとんど変わりません。

だから法律は、

人を傷つける言葉を、
できるだけ抑えながら、
同時に、
人が黙ってしまわないように、

とても慎重に、
線を引こうとしてきました。

この線の引き方が、
少しでも乱れると、

誰かを守るための規制が、
いつのまにか、
社会の声そのものを、
細らせてしまうことになります。

ここに、
表現の自由の、
一番難しいところがあります。

法律は、どこで線を引こうとしているのか

ここまで見てきたように、

言葉は、
人を守ることもあれば、
人を深く傷つけてしまうこともあります。

そして、
自由を守りすぎれば、
誰かが壊れてしまい、
規制を強めすぎれば、
社会が黙ってしまう。

この間で、
法律は、
とても難しい選択を迫られてきました。

では、
実際に法律は、
どこで線を引こうとしているのでしょうか。

答えは、

「人を傷つけたかどうか」だけではありません。

法律が見ているのは、

どんな内容の言葉だったのか。
それは事実なのか、意見なのか、評価なのか。
どんな文脈で語られたのか。
誰に向けて発信されたのか。
どれくらい多くの人に届いたのか。

そして、

その言葉が、
誰の、
どんな権利や尊厳を、
どれほど傷つけたのか。

たとえば、

ある出来事について、
事実を伝えること自体は、
社会にとって大切な意味を持つことがあります。

不正を知らせること。
危険を警告すること。
被害を共有すること。

こうした言葉は、
たとえ誰かにとって不都合であっても、
守られるべき場面が多くあります。

一方で、

事実を伝えているように見えても、

相手を貶めるための言葉だったり、
人格を否定する表現だったり、
必要以上に評価を落とす書き方だったりすると、

その自由は、
簡単には守られません。

ここで重要になるのが、

「何が事実で、
何が意見で、
何が評価なのか」

という区別です。

同じ出来事を書いていても、

起きた事実を淡々と伝えているのか。
自分の考えを述べているのか。
相手の価値や人格を評価しているのか。

その違いによって、
法律の扱いは、
大きく変わってきます。

さらに、

その言葉が、
公共の問題に関わるものなのか。
社会に知らせる意味があるのか。
それとも、
特定の個人を攻撃するためのものなのか。

そうした点も、
とても重く見られます。

法律は、

「自由だから許される」
「傷ついたから違法になる」

という単純な基準ではなく、

言葉の内容と、
文脈と、
影響と、
守るべき価値とを、

一つずつ天秤にかけながら、
線を引こうとしているのです。

そして、
この線の引き方の中心にあるのが、

名誉や人格をどう守るのか、
どこまでを批判として許すのか、

という問題です。

それでも、語ることをやめないために

ここまで見てきたように、

言葉は、
人を支えることもあれば、
人を深く傷つけてしまうこともあります。

だから、

「誰かを傷つけるかもしれないなら、
何も言わない方がいい」

そう思いたくなる気持ちも、
決して間違いではありません。

けれど、
もし、
その考えだけが強くなりすぎると、

不正を告発する声も、
理不尽を訴える声も、
少数意見も、
静かに消えていってしまいます。

表現の自由が守られているのは、

誰かを攻撃するためではなく、

私たちが、
必要なことを語り、
知るべきことを知り、
社会と向き合い続けるためです。

だからこそ、

大切なのは、

「何でも言っていい」と開き直ることでもなく、
「何も言わない」と黙り込むことでもなく、

自分の言葉が、
誰に、
どんな影響を与えるのかを考えながら、

それでも、
語ることをやめない、という姿勢なのかもしれません。

法律は、

そのために、

言葉を一律に縛るのではなく、
一つ一つの表現について、
とても細かく、慎重に、
線を引こうとしてきました。

どの段階から整理しますか

インターネット問題は、
必ずしも手続から始まるわけではありません。

いまの自分の状況に合わせて、
整理する段階を選ぶことができます。